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メール・マガジン
「FNサービス 問題解決おたすけマン」
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★第025号 ’99−12−10★
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言葉の力
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●牛に引かれて善光寺参り、
カミさんの後について、ソプラノを聴きに出かけました。 Hi-Fi狂ではある
けれどナマを聴くことには興味を抱かない私、ですが「トルコ・台湾大地震
被災者支援チャリティ」と銘打たれて、背を向けるわけに行かなかった次第。
クラシック音楽は<嫌いではない>レベル。 曲目に詳しくないし、サワリの
ところに行き着くまで、眠ってしまわずにいられるか自信が無い。 それより
何より、せっかく聴いても歌の中身が分からない。 だいたいイタリヤ語など
習ったことがありませんのでね。
その夜のプログラムにはパーセルとかヘンデルとか、英語系の作曲家も
名を連ねていましたが、英語には聞こえなかった。 オペラの世界では、
英語はタブーなんでしょうかね? 結局、「分からない」まま。
*
しかし、チンプン漢は私だけかな? 我が女房も、ご来場の皆さん大多数も、
でしょう、多分。 それがみんな、言葉の意味は分からないまま、行儀良く
耳を傾け、ただ「いいなあ!」。 これ、何を楽しんでいると言うべきか?
その疑念は昨日今日ではなく昔からで、余談ですが、アチラの人はどうか、
訊いてみたこともありました。 私の耳が<縦書き>用に出来ているせいか
聞き取れないのだが、あなた方はあのオペラも、、? すると、たいていは
首を傾げ、ちょっと肩をすくめる、、 自信は無いらしい。 ほーら、ね!
* *
落語は、ここで笑わされると知って、何度でも聴くもの。 アリアを聴くの
は、たとえれば長編小説の拾い読み。 そこだけで「分かる」ことにはなる
まい。 しかも言葉が「分からない」、、。 それで、楽しめるのかしら?
加えて、1曲ごとに主人公が引っ込んだり、また出て来たり。 それへ拍手
を送る<儀式>の煩わしさ。 もっとも中には、わけが「分からない」まま、
本気の感動で拍手している人もいる、、おお、我が女房も! 横目に見て、
うむ、この<行動>、論理的でないな、、首を傾げる。 <行動>ではなく、
<情動反応>というべきだろうな、、。 しかしその反応、何に対してか?
伴奏はピアノだけだから、主に<歌>への反応と思うが、「分からない」歌
が、聴く人にそれほどの情動、情緒を生じさせるとは、、不思議な力、、。
聴きながらも考えるのがやめられない、因果な性分です。 「聴」衆として
の<あるべき姿>から<かけ離れ>ていますね。 即ち私、<問題>の人。
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●言葉を操る生き物
は人間だけ。 その「意味を通じ合わせるための手段」である言葉が、
その言葉の「分からない」人にも相当のものを<感じさせる>、という話。
昭和32年第1刷発行の岩波新書268、国文学西尾実教授の「日本人の
ことば」に出ている、教授ご自身の体験談です。 それは昭和4年8月、
ドイツのツェッペリン飛行船が世界周航の途中、我が国に立ち寄った時、、
(p.76〜)
*
「夕方から、霞ヶ浦着陸の光景と歓迎の様子が放送されたので、わたしは
熱心に耳を傾けた。、、歓迎の式が始まり、日本側の歓迎のことばが聞こえて
くる。、、それが終わると、群衆のどよめきのなかから、静かな、しかし
はっきりとした、力強いドイツ語が聞こえてきた。ツェッペリン号の技師長、
エッケナー博士のあいさつが始まったのである。 言うことはほとんど
わたしにはわからない。しかし、そのことばの響きは、いかにもどっしりと、
一語一語、真実さを伝えてくる。 わたしは、これはただの技術家ではない、
ひとりのすぐれた<人間>である、という感銘を与えられた。、、、」
で、教授は、その後の新聞記事を追い、
「、、とくにわたしの注意を引いたのは、行くところ行くところでの、博士
の言動であった。 、、日本側の歓迎のことばは形式的で、三人一色のおも
むきがあったが、かれのあいさつは、その時その時の感銘を生かして、一人
三様といってもいいものであった。 はじめて来たよその国で、かぎられた
短い時間に、その場その場で、これだけの生きた中身のあるあいさつをする
ということは、すぐれた人間でなくてはできないことであると思った。」
* *
ところが、そう「思った」のは教授だけではなかったのです。 「数日後の
新聞に、あるドイツ語学者が、<エッケナーのドイツ語>という見出しで、
だいたいこういう意味のことを書いていた。」そうですから。 即ち、
「日本人は、エッケナーのあのすばらしいドイツ語をなんと思って聞いた
だろうか。、、、日本人は、感激するとただ蛮声をはりあげるだけである。
エッケナーのあいさつが、きわめて物静かな声で、しかも、一語一語、聞く
ものの肺ふを貫くようなことばであったのにくらべることさえできない。、、」
そこで教授は、
「これを読んで、エッケナー博士のドイツ語のみごとさにうたれたわたしの
感激が、まちがいでも見当ちがいでもなかったことが証明されたよろこびと
一緒に、わたしには、いくつかの単語が聞きとれた程度で、何をいわれたか
全然わからなかったにもかかわらず、エッケナーその人が心に刻みつけられ、
そういうドイツ語を育てあげたドイツ民族の優秀さが直感されたことに
おどろかないではいられなかった。」のです。
* * *
普通なら左脳で処理されるはずの言語が、この場合右脳か、ひと飛びに
脳幹への刺激となって「感銘」が生じたのかも知れません。 それを可能
とさせるのが「言葉の力」というものではあるまいか、、。
名だたるオペラのアリアなら、何語であれ、歌詞は磨き上げられたもので
あろう。 歌い手の音声も修練のたまもの。 この組み合わせが力を生み、
それが「分かる」も「分からない」もなく感情を動かす。 即ち、感動。
言葉にはそんな力が秘められている。 発信する方がそこまで磨いたのなら、
あとは受信する方の能力か、受け止め方か。 つまり我が女房、いやご来場
の紳士淑女は(若干1名を除いて)みな、素直な感性の持ち主だったようで。
「分からない」歌だが、シビレさせる。 その「力」があってこそ、
これを<芸術>と呼ぶのでしょう。
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●「日本人のことば」
を読んだのは何年も前でしたが、当時すでに私は「言葉の力」を信じており、
<エッケナーのドイツ語>説にも感じ入りました。 そして、そのアリアの
夜、それに類似した現象が、思いがけずこの私にも生じたのです。
アンコールに入って何曲目かのこと。 初めて「日本語」が歌われました。
何かそれまでのとは雰囲気が違う、と思う間に、実にゆったりとした日本語が
流れて来ました。 あいにく題を知りませんが、「砂山の、砂(、、たしか
裕次郎は、そこでジャックナイフを掘り当てたのだが、、、もちろん、あの
歌ではなかった)にいて、、」と始まり、心の深い痛みを味わった去りし日を
想うという、まず私の現実とは噛み合わない内容。 論理的にはナンセンス。
ところが、その「ナンセンス」が耳に入るや、自動的に涙が溢れて来たのです
から困りました。 左脳は「ナントモナイ!」と言い、自分でもナントモナイ
顔をしているのが<あるべき姿>だと分かっている。 が、右脳か脳幹が勝手
に別行動して、私としては本意でない涙、という<現実>を作り出している。
こりゃ<問題>だぜ、と一瞬ウロタエましたよ。
人間を動かすのは、理性でなくて感情、、、改めて認識させられた次第。
まあこの場合は、私の不随意筋が動かされただけですが、、。
*
それまでの歌もみな美しかったし、心を入れて「聴」いていました。 なのに、
涙という生理現象を催すには至らなかった。 それが何と、(ナンセンス!と)
拒む気持ちで「聞」いている歌で、、とは。 で、また考える。
歌い手もピアノ伴奏者も変わっていない、、となると違いは、、<言語>の
種類しか。 さすがに日本の歌曲ですから、旋律はシットリしたものだったが、
シットリはほかにもあったのだから、、、やはり<言葉>の違い、、ですな。
* *
なんて書いていたら、またもやのシンクロニシティ、作曲家中田喜直の「歌曲
の詩とメロディー」なる一文が新聞に載って配達されて来ましたよ。 「唱歌・
君が代・童謡をめぐって」という副題。 その中に、こうありました。
「歌曲というものは詩と音楽が合体して出来るものだが、まず詩として日本語
で完全であり、その詩を生かして最善の音楽をつけることで成立する。」
そこには平野啓子の文からも。 「叙情歌は1コーラス数十秒の短い詩の中に、
美しい日本の風景が凝縮されて歌い込まれています。 、、叙情歌は、詩その
ものが美しく、訴える力があります。 その詩に、メロディーがピッタリと
合っていて、字余りもなければ、言葉の真ん中で分断されることもない。
だから、詩が印象深く伝わり、、、」 その結果、
我が脳幹はいたく刺激され、涙が自動的に、、、か! メロディーは大切だ
けれども、それが詩を壊さないことはより大切。 つまり主役は<言葉>で、
その「印象」が私を圧倒したらしい。 そう、やはり<言葉>だったんだ。
* * *
「ア、イ、ウ、エ、オ。 僅か5個の母音で成り立つという、類例の少ない
言語で育つからこそ<日本人の脳>になる」とは、東京医科歯科大学
角田忠信博士の説。 これにも深くうなずいた私です。 日本語に特別な
反応を生じる何かを、どこか深いところに私も内蔵しているのでしょう。
イタリヤ語に母音がいくつあるか知らないが、英語には23個、フランス語
には16個プラス半母音4個。 それが聴き取れるかどうかは、発音できるか
どうかによる、という説もある。 つまり我々の脳は、外国語を聴き取るのに
不向きな出来になっているわけ。 前記<縦書き>用とは、このこと。
それまでの歌は、懸命に聴いても「分からない」。 ところが<砂山>は、
何も努力しないのに「分かる」。 私の脳はホッとして、突然、緊張から解放
され、ついでに涙腺も緩んだ、、、のかも。 つまり、
理屈抜きでいきなり<感じ>させる、それが「美しい日本語」の威力、、らしい。
* * * *
しかし、「分かる」から「感じる」、とは必ずしも限らないようです。
その後に歌われたのが日本語歌詞の「マイ・ウェイ」。 これに私の不随意筋
は全く反応しませんでした。 で、またもや考えたのですが、多分、私の左脳
の一部は、クラシックの人がそこまでお愛想せずとも、と拒みつつ、別の部分
では、その超訳的歌詞に彼女の人生を重ね合わせたのだな、と受け容れ、、で、
左脳の中に<戦い>が起きたに違いない。 そこで情報伝達が途切れることに
なり、右脳や脳幹へは届かなかったらしい。 これじゃ<感>も<動>も無い。
つまり、日本語なら必ずジンと来る、とは限らないようで。 聴き手の性格が
災いしたのかも。 ウン、それをヒントに、こんな講釈も可能ですね。
「たしかにそうすべきだ」、「しかし、そうは出来ない」という<戦い>を
部下のアタマの中に植え付けるような話法では、部下は動いてくれません。
指示を下す際には、大いに心すべきことです、、、なんて、ね。
* * * * *
いずれにしてもリーダーは、人を動かすため、相手の感情を揺さぶらなくては
ならない。 それには、トークの組み立てにおいて、日本語としての完全さを
心がける必要がある、、、改めて日本語、大いに勉強しなくちゃ。
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●「言葉の力」を生む
もう一つの要素は<音質>でしょう。 西尾教授を感動させたエッケナー博士
の声は「静かな、しかしはっきりとした、力強い」ものだったし、私の自動的
な涙を引き出したソプラノも、きわめて美しく、気品に満ちたものでした。
両者の共通点は、、多分<腹式呼吸による発声>。 我々は無意識的に胸式
呼吸で日本語を喋り、ネイティブの外国語に接することが少ないので、両者
の違いに気づくことが少ない。 自分たちの声に力が欠けていることにも、
普段は気づかない。 欧米人の発散する魅力の一つは、声の良さでしょう。
海外に出て1週間もすると、気づく。 自分の英語音声が<違う>ことに。
「おや? オレの声も満更じゃないな、、」 呼吸法まで現地化するわけ。
*
そう言えば、日産自動車COOゴーン氏の声も深みがありました。 案内者の
英語は日本語的胸式呼吸だろう、弱々しかった。 「なんで英語やるの?」の
中津燎子女史に習うなら別、学校や駅前のナントカでは、呼吸法など教えない
でしょう。 時間や金をかけても英語らしくならないのは、多分そのせいかも。
ゴーン氏と比べては気の毒だが、知り合いに某生保某支社長として抜群の成績
を誇った男がいた。 「○○の一念」みたいな奴で、その声は大げさに言えば
<地響きする>ようで、迫「力」十分。 あれは「腹」から出ていたな、、。
リーダーが声のエネルギーで
encourage する、ということは可能だし、必要。<力強い声>は、ただの大音量じゃない。 音質というか、浸透性というか、、、
甲高い、や微弱では、自信は伝わらない。 だから発言する前に数回、腹式
呼吸を試みるのも宜しかろう。 心を鎮める効果がある、とも言いますから。
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●リーダーの発言は、
ただのお喋りではありません。 何を話すのもご自由ですが、話したことが
成果や効果につながらないと、リーダーとしての評価が下がってしまいます。
だから常に、意識的トークに徹すること。 意識すべきは成果、効果。
それは毎度ながらの
MUST 、 WANT 。 発言の前にそれらを明確にしておくこと。 それらに基づいて、どんな内容を、どんな表現で、、と組み立てる。
*
「内容」で大切なのは、一貫性。 それが欠けると、聴く側の頭に<戦い>
が生じてしまう。 <戦い>は彼らの知的エネルギーを浪費させ、リーダー
への尊敬を失わせます。 よく言う「コロコロ変わる」じゃねえ、、。
「表現」は、語彙、語調、声質、声量、速度、明瞭度、表情、身振り、など
色々な要素の集積ですから、研究の余地は多大。 それらが適切なら、理屈
抜きでも彼らは動いてくれる。 が、不適切だと、、、あなたは道化も同然。
「何を言うか、オレはビジネス・マン。役者じゃない。」 分かります。が、
リーダーは<スター>ですからね。 鑑賞に耐える<演技>力が必要です。
それは自分で磨き上げるほかありません。
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幸い、我々の回りに<サンプル>は豊富。 TVも本もある。 どこにでも
材料は転がっています。 あとはあなたの研究心、、、
The proper study of mankind is man. と申します。 せいぜい研究して、
あなたの<言葉の力>を強化して下さい。
■竹島元一■
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